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村田商店の歴史

About MURATA-Shoten

工場の前で配達に出かける3人です。 真中でバイクにまたがっているのが2代目の稔です。 まだこの当時は借家として借りていたので以前、石鹸工場だった 場所をそのまま使っていたようです。となりにあった掘立小屋を 住居にしていました。 3代目の滋も5歳までここで育ちました。工場は若干の改装をしながら昭和63年まで使っていました。

★ 初代-村田 兵衛
実家は宮城県の仙台市で納豆製造業を営んでいました。 初代村田兵衛が長野市で納豆専門メーカーとしてゼロからのスタートを切ったのは、昭和26年でした。俳人、小林一茶の「痩せ蛙 負けるな一茶 此処にあり」の俳句を自分への励ましの意味で最初の商品を「一茶納豆」と命名したのが、村田商店ブランド「一茶納豆」の始まりです。

★ 2代目-村田 稔
2代目村田稔は生粋の納豆職人で、一茶納豆の品質向上に貢献し、現在のスタイルを確立しました。平成元年に新工場を建設し北海道産などの国産大豆の納豆も多数開発しました。平成8年、時代と共に厳しい経営状況の狭間に立たされましたが何とか3代目の滋にバトンを継いだのです。

★ 3代目-村田 滋
3代目滋は、創業以来、最も厳しい時代を迎えました。過当な価 格競争や輸入大豆の遺伝子組み換え等を懸念し、食品本来の姿 を追求。地元長野で大豆の契約栽培を始め、量や売上げを追わ ない品質重視の手作り納豆を手がける道を選びました。その結果、 独自の市場を確保することが出来、多くの消費者と顔の見える関 係も出来上がり、その信頼関係を大切に守り続けています。平成 20年以降は地域の活性化に貢献するための諸団体や活動に積 極的に携わり、納豆づくりを通じて食糧の自給率向上にも力を注 いでいます。

◆ 第4回全国納豆政岡会通常総会
仙台市内の実家で納豆製造をしていた「政岡納豆」(村田兵衛の兄が起業)には10人の修行生がおり、その後全国へ独立していきました。それから「政岡納豆会」を立ち上げて年に1度の総会と勉強会を(昭和50年代中ごろまで)開いていました。写真の中には、現在も活躍している京都の高橋食品工業㈱の高橋孝幸さんや坂田のくろもりアルファフーズ㈱の富樫久一さんも写っています。

◆ 政岡納豆工場前で
仙台で政岡納豆を継いだ中林さん家族と政岡納豆工場前で、2代目村田稔(右)、妻 美代子(中央)、長女 まゆみ(前)*3代目はまだ生まれていない

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